四旬節第1主日・どうすれば困難や苦しみを「試練」とすることができるか【こうじ神父・取って食べなさい】
Автор: こうじ神父「取って食べなさい」
Загружено: 2026-02-21
Просмотров: 77
Описание:
四旬節第1主日(マタイ4:1-11)どうすれば困難や苦しみを「試練」とすることができるか【こうじ神父・取って食べなさい】
珍しく主任司祭のミサと説教にあずかりましたね。同情します。助任司祭の説教はキレがあって簡潔で、ありがたい説教だと思いますが、主任司祭の説教はキレもなく、長ったらしく、ありがたくも何ともないと思いますが、それを辛抱して聞くのですから皆さんは非常に徳を積みつつあります。それだけはお約束できます。
四旬節に入りました。四旬節は、イエス様の死と復活の神秘を黙想し、準備する40日間です。私たちが、誘惑に陥らず、悪から救っていただき、罪に死んでキリストによって生きる。私たちもイエスの死と復活に招かれる。そのための準備の期間です。どんな計画を練ったでしょうか。どんなプランで、この四旬節を過ごしますか。
もし、プランがないのであれば、「困難や苦しみを『試練』として向き合い、役立てる」こういうプランにしてはいかがでしょうか。皆さんが日ごろ唱える主の祈りに「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」というくだりがあります。「誘惑に陥らせず」であって、「試練に陥らせず」ではありません。言いたいことがわかるでしょうか?
神様は人間に「誘惑」に陥らせることはしませんが、「試練」に遭わせることはあるのです。神様は困難や苦しみが「誘惑」にならないように助けてくださいますが、一方で困難や苦しみを「試練」として与え、鍛えてくださる。そういう場面はあり得るということです。困難や苦しみは、場合によって「誘惑」ともなり得るし「試練」となることもあるのです。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(4・3)これは明らかに「誘惑」です。悪魔の巧みな罠です。しかしイエスは、それを「試練」として受け止め、乗り越えるすべをご存じでした。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
「どうしてイエス様はパンの罠に、神の言葉で答えたのだ?」と疑問に思う人もいるでしょう。しかし同時にすぐ思い出すでしょう。マルコ福音書の8章15節です。イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。このことも加味して考えれば、イエス様が悪魔の罠を神の言葉で乗り越えた意味も分かるでしょう。この世にどんな誘惑、罠があったとしても、イエスと同じく神の言葉により頼む人は、困難や苦しみが誘惑となってしまわず、試練として前向きに立ち向かい、乗り越えていけるのです。
イエス様はいつごろから、困難や苦しみ、悪魔の誘惑を御父からの「試練」と受け止め、退けたり乗り越えたりできるようになっていったのでしょうか。あくまでも想像ですが、私が根拠としたのはイエス様の誕生の時にさかのぼります。マタイ福音書によるイエスの誕生物語には、「占星術の学者たちが訪れる」という物語が含まれています。これはルカ福音書の誕生物語にはありません。
その、占星術の学者たちが何をしたか覚えていますか?「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(2・11)とあります。確かに「黄金」を献げたはずですよね?「黄金」はいったいどうなったのでしょうか?どこかで消えてなくなったのでしょうか?今だったら1グラム3万円ですよ?
私も60年生きて、初めて疑問に思ったわけです。その後、聖書のどこにも登場しません。私がイエス様の養父なら、エジプトに避難するとき、エジプトから帰るとき、ちょっとずつお金に換えて生活費の足しにしますね。しかしヨセフ様とマリア様は、占星術の学者たちがひれ伏して献げたものを換金するのでしょうか?断言はできませんが、換金しないと思います。ではどうなったのでしょうか?
私はこう考えます。ヨハネ福音書1章によると最初の弟子たちは洗礼者ヨハネの二人の弟子でした。彼らは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ね、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見たとなっています。
おそらく、エジプトから帰還し、宣教活動に入って間もなく生活の拠点にしていた住まいに、占星術の学者たちが献上したものが置いてあったのではないでしょうか。イエス様はたとえばその中の黄金に目がくらむことなく、質素な生活を保っていた。そうだとしたら、アンデレともう一人(おそらくヨハネでしょう)は、仰天したのではないかと思います。この世の宝は「誘惑」になり得ますが、イエスはとっくにそれを超越しておられた。これは考えすぎでしょうか。
とにかく、私たちは悪魔から誘惑を受けるイエスの毅然とした態度から、四旬節の過ごし方、プランを学ぶべきです。つまり「困難や苦しみを『試練』として向き合い、役立てる」ということです。あらゆる困難や苦しみは、神の存在を疑ったり、神への信仰に失望する誘惑になり得ます。
それを、イエスの取った態度に倣い、試練として向き合い、乗り越えていく。そうすることで、すばらしい復活の恵みにあずかれるのだと思います。「受難と復活」これは切り離せないものであり、四旬節は受難と復活を迎えるための必要な40日なのです。
Повторяем попытку...
Доступные форматы для скачивания:
Скачать видео
-
Информация по загрузке: