大切な人の死は、浄土を開く。 (ショート法話624)
Автор: YouTube仏教法話 北海道岩見沢市・幌向善光寺 ~北の寺からch~
Загружено: 2025-12-09
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北海道岩見沢市幌向 浄土宗西山禅林寺派「善光寺」 大久保瑞昭住職による短時間で聞けるショート法話です。 #仏教 #浄土宗 #西山派 #法話 #お経 #念仏 #北海道 #岩見沢 #幌向
※当・善光寺は、檀家さんより、年間、維持費として一万円、十夜法要への寄付金として五千円~をいただいております。
※当・善光寺では、いったん檀家になり、それを辞める場合でも、他の多くの寺院と同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、御朱印を承っています(要予約)。
養老孟司さんがよく、「一人称の死、二人称の死、三人称の死」ということをおっしゃっています。
「一人称の死」というのは、言うまでもなく、「自分の死」ということです。
次は「二人称の死」ですが、その前に「三人称の死」について、申し上げます。
この「三人称の死」というのは、養老さん曰く、どこか知らない誰かの死のことです。
例えば、「日本の今月の交通事故死亡者数は何人でした」という発表が、ニュースであっても、自分が親しい人とかが交通事故に遭っていないなら、それは、自分とは関係のない死、自分のこととして意識ができない死なのですね。
最後に、「二人称の死」ですが、これは「大切な人、自分と関わりのある人の死」ということです。
この「二人称の死」だけが、自分が把握ができる、知ることができる、ということなんです。
自分の死は分からないし、どこかの誰かの関係ない人の死も、どこの誰と、自分にはわからないんです。
ですから、私たちにとって、「死」というのは、「大切な人の死」のことなんです。
ですから、現世に生きる私たちにとって、この生身で経験できるのは、「自分の死」ではなく、「大切な人の死」なのです。
「死はどういうものか」ということを知ることは、「大切な人の死を通して」なのですね。
その「大切な人の死」について考えてみると、それはどうしても、「あの大切な人は亡くなったらどうなっているのだろうか」ということに行き着くと思います。
それはお釈迦様がお経に示されています。
そのことを、お釈迦様は、ぼんやりと「あの世」ではなくて、私たちが迷わないように、はっきりと、「方角は西にある、そこには阿弥陀仏という仏様がいらっしゃる、そしてその仏の国、お浄土に亡き人は往き生まれ仏と成り、私たちもやがてはそこで仏となる。そしてこの現在生きている人々を導いていく」、そのように説かれています。
私たちは、「死」について、「大切な人の死」を通してでしか知ることはできません。
ですから、「死んだら無になる」というのは、「私の大切な人は死んだら無になる」と言っていることなのです。
それよりも私は、「私の大切な人は阿弥陀仏の仏の国、浄土に往生する、往って生まれている。そしてそこで仏と成っている。そして今も私たちを導いて下さっている。だから私も、亡き人が喜んでくれるような生き方をしていこう」、そのように、私は自分にとっての「大切な人の死」を受け止めています。
何度も申し上げますが、私たちは、「死」について考えるとき、「自分の死」ではなく、「自分にとって大切な人の死」を通してでしか、受け止めることはできません。
そしてそのように、「大切な人の死」を考えることは、「人は生きて亡くなるとどうなるのか」ということを考えることであり、それはそのまま、「どのように生きるのか」ということを考えることになるのですね。
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