加蘇山(かそやま)神社 加蘇山神社奥の宮 栃木県鹿沼市上久我(かみくが)
Автор: なにぬねの
Загружено: 2026-02-24
Просмотров: 3
Описание:
加蘇山(かそやま)神社
加蘇山神社奥の宮
栃木県鹿沼市上久我(かみくが)
no.0165
奥の宮への登拝路は
往復約2時間の道のりで
「行者帰しの岩」と呼ばれる
険しい鎖場では過去3件の死亡事故があり
登山届、綿密な準備
十分な体力・注意を要する
行程とされる
携帯電話の電波が
入らないことも多く
登拝路は道順を間違えやすいので
事前にダウンロードできる
山岳マップを用意して臨むことが
求められるという
そんな険しい山岳霊場である
加蘇山(かそやま)神社は標高879mの
石裂山(おざくさん=尾鑿山)を
御神体とし
山頂を挟んで反対側の入粟野地区には
賀蘇山("が"そやま)神社が鎮座する
創建は神護景雲元年(767年)
勝道(しょうどう)上人により開山し
磐炸(いわさくの)命、根裂(ねさくの)命
武甕槌男命をお祀りする
勝道上人は第11代垂仁天皇の後裔
上野国の若田氏出身とされ
天平勝宝6年(762年)下野薬師寺で
如意僧都から沙弥戒・具足戒を受けて
僧侶に認定されている
鑑真の弟子・道忠は律宗だったが
最澄を支援して関東に天台教団を広め
渡来人からは華厳経が広まっており
勝道はそんな関東の仏教情勢に影響され
天平宝字6年(765年)には
栃木市の出流山満願寺を開山したという
そして幾度かの失敗を経て
延暦元年(782年)には日光山への
登頂を果たし
中禅寺湖畔に二荒山神社の神宮寺
中禅寺を開山している
一説には下野国河内郡の式内社で
名神大社の
二荒山(ふたらさん)神社や
天台門跡寺院となる輪王寺の前身
四本(しほん)龍寺の創建にも
勝道は携わったとされる
大同2年(807年)には
日光山で降雨祈願を執り行い
弘仁8年(817年)には
四本龍寺近くの岩窟にて
83歳で示寂(じしゃく)するなど
その行いから日光の修験道を
切り開いた僧侶と考えられる
また御祭神の磐炸・根裂命は
イザナギが子のカグツチを
十拳剣(とつかのつるぎ)で斬った際に
流れた血から生まれた神とされ
『日本書紀』ではその孫に
剣の音の化身とも言われる
経津主命がおり
当社の武甕槌男命とともに
葦原中国(あしはらなかつくに)の平定を
行った神とされる
なお勝道上人は3度目にして
日光山登頂が成功したときに
磐炸命が手助けしたことから
信仰篤かったとも言われ
近隣は全国的にも珍しく
磐裂・根裂命をお祀りする神社が
集中する地域となっている
また磐炸命の本地仏は
明星天子とも呼ばれる
虚空蔵菩薩であり
星にまつわることから
下野国に特に集中する星宮神社として
お祀りしたという説もある
そんな日光修験と
ゆかりの深い当社は
『日本三代実録』によると
元慶2年(878年)下野国賀蘇山神に
従五位下の神階を賜ったという
永承年間(1046〜53年)には
奥州征伐の源頼義・義家父子が
当社に参籠(さんろう)して祈願をし
見事勝利したことから
太刀が奉納されたという
また戦国期には
栃木市の皆川荘や栃木城を
拠点とした皆川広照が崇敬し
当地の久我氏が滅亡する際には
兵火により神宝、古文書は焼失した
という
なお一般的に知られる
第62代村上天皇の後裔・村上源氏嫡流で
清華家の久我(こが)氏と
当地の久我(くが)氏に
関係があるかは不明である
当社の神職家は
湯沢氏5家が務めたとされ
一族には戦中期に内務大臣を務めた
湯沢三千男を輩出したという
また登拝路の途中には
「縁結びの千本桂」があり
真ん中の枯れた幹の脇から
2本の「ひこばえ」が伸びており
その樹齢は700年の幹と
1,000年の幹があるという
昭和32年(1957年)には
栃木県の天然記念物に
指定された
加蘇山神社の構成は
ふもとに社務所があり
山林の車道を進んで
駐車場が見えると
加蘇山神社の社殿に行き当たる
しばらく登ると
日留神社があり
日読命という珍しい神を
お祀りしているが
山頂の月山に
月山神社があり
月読命がお祀りされることから
その対になっていると考えられる
また御祭神・磐裂神が
星を表す虚空蔵菩薩を本地仏と
することから
日蓮聖人の法華経を守護したという
日・月・明星の三光天子に
なぞらえている可能性も
考えられる
このほか、日留神社を
「ひるめ」神社と読めば
日読命とは天照大神の巫女としての
側面を表すとされる
大日孁(おおひるめ)命を
指すのかもしれない
そして山頂部は環状線となっており
下りの月山へのルートとの分岐を
千本桂方面にしばらく歩くと
中ノ宮跡が見えてくる
中ノ宮から奥の宮は間近にあり
鎖場とハシゴが整備された
険しい岩場を登ると
岩窟の裂け目に鎮座する
奥の宮が見えてくる
そして山頂を登頂したい方は
そのまま岩山を登っていき
奥の宮の参拝で十分な方は
そのままハシゴと鎖場を
降りて帰ることになる
途中、道を見失うことも多いが
看板やリボン状の紐を目印に
足腰の負荷に注意して
もと来た山道を降りてゆく
そんな岩山を御神体とする
「おざく信仰」の加蘇山神社は
江戸時代には関東に10万人の信者がおり
五穀豊穣、商売繁盛の御神徳で
賑わったという
そして当地の江戸時代は
都賀郡上久我村であり
日光神領827石だったという
日光神領は下野国54ヶ村に及び
一時は2万5,000石に達したが
山村も多く江戸後期には荒廃したため
二宮尊徳による立て直し
復興仕法が実施されたという
この荒廃は江戸や北関東諸都市の
工場制手工業の隆盛に伴う
農村人口の流出が背景にあり
近隣諸藩では報徳仕法を導入して
藩政改革を行うとともに
信仰から赤子の間引きを忌避する
北陸の一向宗門徒が
人口過剰となっていることに
目をつけて
移民政策である入百姓政策により
農村労働力を確保しようとした
一向宗門徒の勤勉さも重宝され
北関東から陸奥の相馬などの地域に
北陸からの移住が
江戸後期に行われている
Повторяем попытку...
Доступные форматы для скачивания:
Скачать видео
-
Информация по загрузке: