松代城 "松代藩歴代藩主の居城・元の海津城は武田軍の拠点" つわものどもが夢の跡・城跡めぐり58
Автор: さんにむ Sannimu (大浦三右衛門 Ooura San-emon)
Загружено: 2025-03-18
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所在地:長野市松代町松代44
戦国時代、武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城(元は海津城)。千曲川のほとりという自然の地形を生かした天然要塞です。江戸時代に真田信之が上田城から松代藩主として移った後は、真田氏10代が城主(松代城)としてこの地を治め、10万石の城下町を形成しました。2004(平成16)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀など大規模な修復・復元工事が完了しました。毎年4月中旬にはサクラの名所としてにぎわいます。
・海津城時代
海津城が築城された年は詳しくわかっていませんが1560年前後と推定されます。
初代城代は武田四天王の一人、高坂昌信です。
武田信玄が海津城築城命じた理由は越後(新潟県)の上杉家に対処するためです。
有名な川中島の戦いは五回ともすべてこの付近で行われています。
激戦となった四次川中島の戦いでは海津城から武田軍の本隊と妻女山別働隊が出陣しています。この戦いでは武田軍本隊(8000人)・妻女山別働隊(12000人)と上杉軍(13000人)が激しい戦いを繰り広げ、武田軍が約4000人・上杉軍が約3000人の死者を出す大きな戦いとなりました。その後武田氏が滅亡した後は、織田家家臣の森長可が城主となります。しかし織田信長が本能寺の変にて倒れると、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)にて上杉氏の支配下になります。
上杉景勝が会津へ国替えとなると豊臣家の支配下となり、田丸直昌が城主なりました。
・松代城時代
1600年に森忠政が城主となった際に松代の「松」の元となった「待城」と改名されました。1603年に徳川家康の6男松平忠輝が城主となった際に「待城」をさらに「松城」と改名されました。1622年に真田信之が加増移封される。(以後10代の間で約250年間続きました。)そして1711年の3代目藩主真田幸道のときに幕命により「松代城」と改名されました。建物に関しては、1625年に火事により二の丸を焼失。さらに1717年火事にて本丸・二の丸・三の丸を焼失。1742年には千曲川の洪水で大きな損害を被り、1853年にまたしても火事で花の丸御殿を焼失したりと、この時代では深刻だった火災や洪水などの被害に悩まされていたことがよくわかります。
・松代城の歴史
永禄3年(1560)、甲斐の武田信玄が、越後の上杉謙信との「川中島の合戦」(1553-1564)の際に築城した「海津城」が松代城のはじまりとされています。その後、戦国の動乱とともに城主が移り変わり、森忠政が城主となった慶長5年(1600)に「待城」と改名されました。次の松平忠輝の時に「松城」と呼ばれるようになり、その後、元和8年(1622)に真田信之が上田から移封され、真田3代目藩主幸道のときに幕命により「松代城」と改名されました。
松代城は背後を流れる千曲川がたびたび洪水を起こしたため、その修復と千曲川の改修を何度も行っています。中でも「戌の満水」と呼ばれる寛保2年(1742)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金を許されました。また、二の丸を焼失した寛永2年(1625)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853)など、城内での火災もたびたび起こっています。こうした浸水被害を受ける本丸にかわり、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となりました。
明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また御殿が存在した花の丸は、同6年(1873)に放火され焼失してしまいました。松代城の建物で現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)などわずかです。昭和56年(1981)、本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されました。また、平成24年(2012)3月の長野電鉄屋代線の廃線を受け、平成27年(2015)には、二の丸南東部や三日月堀、丸馬出しなどを含む範囲が追加指定を受けています。
・太鼓門
太鼓門(たいこもん)は本丸南側の大手(正面)に位置する門で、本丸に存在した3ヶ所の櫓門の中で最大規模の門です。太鼓門の前には内堀にかかる太鼓門前橋があります。
高さ11.8mの櫓門と「橋詰門」と呼ばれる高麗門、続塀が復元されています。
本丸大手を守る、いわゆる枡形門で、橋詰門(高麗門)と太鼓門(櫓門)で構成されています。
・埋門
埋門(うずみもん)は本丸から見て西側、二の丸の北西側にある門です。二の丸を囲う土塁の中に配置されており、石でトンネル状に構築されています。緊急時にすぐ埋められるようになっていたことが名前の由来です。門の幅は人1人がようやく通れる程度になっています。なお二の丸を囲う土塁には、ほかにも同じ門が2ヶ所存在していました。現在見られるものは、江戸時代後期の絵図をもとに当時の景観を再現したものです。
・二の丸石場門
二の丸の東には石場門がありました。実物の石場門礎石(そせき)は地中に保護していますが、門の位置をレプリカの礎石で示しています。土塁(どるい)の裾部分に立ち並ぶ平石は土塁の土留(どど)めや水切りのためのものと思われます。
・戌亥櫓台
松代城跡の北西には戌亥櫓台(いぬいやぐらだい)があります。
戌亥櫓は北不明門に隣接していた櫓で、現在は櫓台の石垣が修復整備されています。
松代城で最も高い櫓の跡です。絵図面では2階建ての櫓(やぐら)が建っていたとあり、川中島平を広く一望できたと考えられています。
・北不明門
本丸の裏口(搦手)(からめて)に位置する門です。太鼓門と同様に櫓門(やぐらもん)と表門(枡形門)(ますがたもん)の2棟による構成でした。
18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に位置していたことから、『水ノ手御門(みずのてごもん)』と呼ばれることもありました。
絵図資料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。
・内堀
廃城以降順次埋め立てられ、整備前は位置すら判別しがたい状況でしたが、発掘調査の結果、内堀の範囲や形状が確認できました。整備後は水堀としてよみがえりました。
・本丸御殿
本丸内には、藩主が政治を行い、生活する御殿がありました。発掘や絵図資料から、御殿は数回建て替えられていたことが分かりました。今回の整備では、御殿の平面表示は行わず、調査で確認された礎石は土で盛って保護してあります。
・二の丸南門
二の丸南側の出入口に位置する門です。整備では発掘調査と史料調査をもとに建物の一部表示、石垣の修復を行っています。
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