【陵墓をゆく】第1回 後醍醐天皇陵 塔尾陵
Автор: History Travel
Загружено: 2020-03-02
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・後醍醐天皇 正辰祭
9月27日は、新暦の後醍醐天皇崩御当日にあたります。
各天皇の崩御当日には、正辰祭(御陵前での祭典)が宮内庁によって執り行われています。
如意輪寺のホームページ(
https://nyoirinji.com/gyoki.html)
には正辰祭の様子が紹介されています。
こちらには、「どなたでも参拝・参列頂けます」との記載があり、今回はこの情報をもとに、取材させていただくことにしました。
令和元年は、後醍醐天皇が崩御されてより、680年。後醍醐天皇塔尾陵は、通常南面することとなっている他の御陵とは違い、京都を望み、北面しています。
天皇は御手に劔と法華経を持ち、墳丘に座った形で葬られたとされています。
如意輪寺は公共交通で行くと、近鉄吉野駅から徒歩30分ほど。御陵は、近世に入り真言宗から浄土宗へと改宗したこの寺の裏山にあります。
・天皇の「徳」
後醍醐天皇は、近世においては「不徳の君主」として扱われ、新井白石らが批判を加えています。
山崎闇斎は「不徳の君主に忠義を尽くす」点に「忠」の極致を見出し、かえって楠木正成の「忠臣」としての評価が益々高まっていく、といった力学が働いたともいいます(松浦光修『明治維新という大業』)。
我々は後醍醐天皇の「徳」の有無を論ずることはしませんが、
世治まり民安かれと祈るこそ我が身につきぬ思ひなりけれ
との御製は記憶しておくべきでしょう。
・御陵の歴史
後醍醐天皇陵には、吉野に訪れる多くの人々が立ち寄り、往時を偲んでいます。
本居宣長の記述に登場する塔尾陵には
「又塔尾の御陵と申て。此堂(筆者注:如意輪寺)のうしろの山へすこしのぼりて。木深き陰に。かの帝のみさゞぎのあるに。まうでて見奉れば。こだかくつきたるをかの。木どもおひしげり。つくりめぐらしたる石の御垣も。かたへはうちゆがみ。かあけそこなはれなど。さびしく物あはれなる所也。」(『菅笠日記』)
とあります。
また、近世の天皇陵研究者としては最初期に位置する松下見林も
拱木叢生す、静寂として、心を痛ましむ(『前王廟陵記』)
と塔尾陵を記しています。
彼らの文章によれば、木々が生い茂っていた様子が伝わります。御陵の寂れた様子に、その御生涯を重ね合わせたのかもしれません。
荒廃し、その場所そのものも不明になる古代・中世の多くの御陵と比較すれば、後醍醐天皇陵は荒廃の憂き目に遭遇することはなかったようです。
近代に入ってからの記述には
此ノ陵、古来厳然トシテ未ダ嘗テ荒圯に就カズ、諸陵荒廃ノ時、猶吉野山ニ御陵守護人ト称シ、守陵アリテ、奉祀ヲ絶タズ、陵下如意輪寺亦歳時祀を奉ズ(上野竹次郎編『山陵』)
と、御陵はしっかりと管理されており、荒廃は縁遠かったように記されています。
さすがに言い過ぎ…とも思いますが、「どの古墳が〇〇天皇の御陵か?」と議論になるほど、天皇の御陵の管理は疎かになっていた時代です。「確実にこれ」と言い切れる状態で幕末まで護り続けられた御陵の存在は却って珍しいものでした。
幕末の天皇陵研究者・谷森善臣の文章には
まきれなき 御陵なれハ先達の異説も聞えす、いと慥なる 御陵にこそはおはしけれ(『山陵考』)。
とあるように、後醍醐天皇陵は御陵として一時荒廃はすれど、確実な御陵の一つでした。
・「神宿る」御陵
後醍醐天皇陵の歴史は他にもあります。
例えば、江戸時代の記録には
此御陵折々鳴動 寺中ニテ不知、外ニテシレル…(「元禄十丁丑年山陵記録」)
とあり、この御陵が鳴動したという話題が記録されています。
幕末の志士、伴林光平の『野山のなげき』にも、
十月十八日夜吉野の塔尾の御陵いたうなりはためきけるよしきき侍りて
世を嘆く 神の息吹に 吉野山 岨は巌も 砕けゝりとよ
と和歌があります。
当時の人々は、後醍醐天皇陵を「神宿る」御陵と捉えていたようです。
このような話は他にもあります。
江戸時代前期の段階から、御陵中腹より上は禁足地であったようです。
ある時、御陵山頂上に枯木があり、取り除きたいが、あくまで禁足地であり、如何にすべきかと人々は戸惑っていました。
ここで、ある人物が「枯木ミグルシキヲトリテ跡ヲ清ムルニ何ノ祟リアルヘキヤ」と登ろうと準備すると、「枯木禁足ノ山ヨリ下ヘタヲレカゝリ上ノ山ヘカマイナク取オロス」ことができ、結局この人物も含め誰も禁足地に足を踏み入れることはなかった………といいます。
「枯木を取り除くのだから…」という、この人物の考えも一理あるのですが、「じゃあ…」と禁足地に入ろうとすると、すっとその枯木が禁足地の外から取れる位置に倒れかかったというのです。まるで、御陵が生きているようですね。これは「奇妙ノ事」と僧侶が語った話として記録されています(「元禄十丁丑年山陵記録」)。
・小さな鳥居の不思議
どの天皇陵にも拝所正面には鳥居があります。
後醍醐天皇陵にも大きな鳥居があるのですが、その奥に扉の付いた小さな鳥居があるのが見てとれます(小さいので動画ではなかなか見えませんが…)。これは他の御陵には見られないものです。
御陵を囲う石垣と一体となっているこの不思議な鳥居。住職に話を伺うと、この小さな鳥居は幕末以前から存在しているのだとか。
調べてみると、安政2年(1855)の記録には
石鳥居高四尺弐寸、表間三尺、扉高弐尺八寸五歩、幅三尺、両扉開附、東西江向…(「安政二年御陵取調復命書」)
と記されています。これらは、後醍醐天皇350年御忌である貞享4年(1867)に築かれたもののようです。
多くの天皇陵は、江戸時代までは荒廃して管理されていないところが殆どでした。
そのため、今のようになったのは幕末・明治に整備されてから。当然、それ以前の遺構などは殆ど残っていません。
ですが後醍醐天皇陵は、近代以前までもしっかりと管理され、崇敬する方々がいたからこそ、こうした鳥居が建立され、今でも残っているんですね。後醍醐天皇陵に対する崇敬の様子を伝える貴重な鳥居です。
御陵に眠る後醍醐天皇は、今の日本をどのように見ておられるでしょうか。
吉野を訪ね、後醍醐天皇陵を詣でた先人たちは、「神宿る」御陵に何を思ったのでしょうか。
皆様も吉野へ詣でて、その思いに触れてみてはいかがでしょうか。
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