高炉台公園
Автор: 北九州遊訪
Загружено: 2026-02-21
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高炉台公園は北九州市八幡東区中央3丁目にあります。1951(昭和26)年、戦災復興による公園事業の一環として、八幡製鐵所の東田高炉群を望む熊本山公園の総合公園化の計画が決定されました。高炉台公園と命名され、八幡市政40周年の1957(昭和32)年開園しました。旧八幡市の中心部を一望する丘陵地にあり、記念碑・詩碑・句碑が多く建てられ、野外彫刻も展示されています。
熊本山と呼ばれるこの丘陵地は、仲哀天皇・神功皇后の征西の際、崗県主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(くまわに)が榊を採った所と伝えられています。天皇の行幸を聞いた熊鰐は、鏡・剣・玉を掛けた賢木(榊)を船の舳先に立てて出迎い、先導しました。
高炉台公園開園の年、市政40周年の記念に、八幡製鐵所から寄贈された鉄都誕生記念碑が頂上に設置されました。それは高さ17.5mの高炉(溶鉱炉)を模した塔で、塔の周囲には樽谷清太郎作の自由・労働・平和・青春と題した四体の男女のブロンズ像が建てられました。記念碑は老朽化のため撤去され、1995(平成7)年高炉のモニュメントが設置されています。このモニュメントは展望台にもなっています。塔が撤去された時、ブロンズ像も撤去されましたが、近年再度設置されました。
東田は我国の近代製鉄発祥の地ですが、戦後は戸畑地区が埋立てられ、高炉や主力工場は戸畑地区に移転されました。1963(昭和38)年五市が合併して北九州市が発足しました。
遊休地になった東田はテーマパークのスペースワールドがオープンしますが、その後閉鎖され、総合都市開発事業がスタートしました。八幡製鐵所も新日本製鐵となり、住友金属と合併して新日鐵住金となりました。東田はニュータウンに変貌しました。2019(令和元)年、新日鐵住金は日本製鉄と商号変更し、2020(令和2)年、全国で6製鉄所体制となり、八幡製鉄戸畑は九州製鉄所八幡地区(戸畑)となりました。
高炉台公園は四方を道路で囲まれています。その中、東側の2/3以上が高炉台公園とその北側の駐車場、北九州市立八幡東体育館、野球場です。西側1/3以下が北に北九州市立中央中学校、南に市立八幡小学校です。
高炉台公園の南側、県道62号から頂上のモニュメントが見え、上に昇る螺旋階段の地上入口を見て西に進み、上本町交差点を左折して、下り坂の山王中央1号を北に進みます。左手に枝光南市民センターがあり、道はその先で左にカーブし、高架の国道3号線戸畑バイパスが見えます。その手前の上本町2丁目交差点を左折すると、高炉台公園の駐車場があります。
駐車場から高炉台公園の南側に入って行きます。石段を昇ると坂道が伸びていて、左手に遊具があります。坂の先の左手は、周囲に桜が植えられているさくらの広場です。その北側に石碑が並んでいます。一番北側が古く、順に並んでいます。
「巣立つ子の 夢へ八幡の 空は炎え」子の親として、八幡製鐵所に勤めて川柳を作った石橋陸朗(1911~81)の句碑です。
「夜の眺め 昼のながめも 大八幡」上野十七八(さかり、1900~78)の句碑です。八幡で生まれた上野は、八幡製鐵所に勤める傍ら川柳を作りました。1929(昭和4)年上野は川柳くろがね吟社を創設し、主宰しました。
「無法松の一生」で有名な「富島松五郎伝」の一節が、祇園太鼓の形の石碑に刻まれた岩下俊作文学碑です。岩下俊作(1906-80)が「富島松五郎伝」を1938(昭和13)年に書いて、直木賞候補になりました。岩下俊作は生涯小倉に住み、八幡製鐵所に勤めました。
一番新しいのが佐木隆三文学碑です。表には1976(昭和51)年直木賞受賞の代表作「復讐するは我にあり」が刻まれ、裏には略歴が刻まれています。佐木隆三(1937-2015)は八幡製鐵所勤務中から文学活動を行いました。
さくら広場と野外ステージの間を先に行くと、鉄鋼彫刻が展示されています。篠原有司男(うしお)の1993年の作品「兎と蛙の乗ったケンタウルス鉄鋼モーターサイクル」です。半人半馬のケンタウルスのギリシャ神話に題材を求めた作品で、オートバイのケンタウルスに兎と蛙が乗っています。
少し戻って、野外ステージを見ます。ステージの前に立って半円形の観客席を眺めますと、観客席の後に四体のブロンズ像が立っています。前述した樽谷清太郎作の四体の男女のブロンズ像です。観客席中央の通路を、上に立っている高炉のモニュメントに向かって階段を昇ります。モニュメントの内部は螺旋階段になっていて、上は展望台になっています。展望台から四方が望めます。
モニュメントの南西側の一段低い所に芳賀種義翁之碑があります。芳賀種義は、官営八幡製鐵所設立時の遠賀郡八幡村の村長でした。大隈重信の感謝状が刻まれています。製鉄所の誘致では、敷地の一部は無償の献納であったり、買い上げ価格が時価の半額であったり、敷地が途中で倍の広さを求められたり、地元民にとっては厳しいものでした。そんな中、芳賀種義は必死の説得を行い、やっと誘致されました。
モニュメントから北西に進むと、展望広場があります。展望広場を西に進みます。展望広場の先に二人の句碑があります。
「雪霏々と 舷梯のぼる 眸ぬれたり」 横山白虹
「七月の青嶺 まぢかく 熔鑛爐」 山口誓子
誓子の句は、1927(昭和2)年に若松で詠んだ句です。この時白虹は誓子に会いました。横山白虹は多くの門弟を育て、小倉市議になり、文化団体の会長を歴任しました。
展望広場の西端に北原白秋の詩碑があります。
「山へ山へと 八幡はのぼる はがねつむように家が立つ」「八幡小唄」の一節が刻まれています。この詩は、1930(昭和5)年の八幡の情景を歌ったものです。
展望広場の西端に熊本山の石碑が立っています。昭和9(1934)年1月に建てられています。石碑の先の石段を降りて行くと、八幡小学校、その先は中央中学校、更にその先は公園に入って来た駐車場です。
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