「兄・サトウハチローは、・・・だった」 佐藤愛子100歳が語る ・・記憶と記録
Автор: GG no
Загружено: 2024-11-27
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「兄・サトウハチローは、・・・だった」 佐藤愛子100歳が語る
佐藤愛子100歳が語る、
「兄・サトウハチローは、奇抜で繊細な詩人だった」、
生誕120年、没後50年、
歌い継がれる詞を残した作家であり、不良であり、ニセ学生であり、
佐藤愛子 作家、
作家となった妹(佐藤愛子さん)と 詩人の兄(サトウハチローさん)。
11月13日、サトウハチロー(本名・佐藤八郎)さんの50回目の命日が巡ってきました。数々の童謡や「リンゴの唄」などの流行歌を作詞。センチメンタルな詩、ユーモア小説にエッセイと多彩な才能を見せた人物像を、異母妹の佐藤愛子さんが振り返ります。
才智を駆使して人を笑わせる、
愛子さんが幼い頃、八郎さんが東京から兵庫の家を訪ねてくる様子が近刊『思い出の屑籠』に書かれています。八郎兄さんが来ると家の中が一気に明るくなった、と。
――いやぁ、面白い人でしたね。人を笑わせるのが大好きなんですよ。八郎が来ると、家中に笑いが満ち溢れました。何より父の機嫌がよくなるんです。父はユーモアのある人間が好きだから、八郎のことは気に入っていました。
八郎には才気があるんですよ。サービス精神旺盛で、機嫌のいい時はありったけの才智を駆使して人を笑わせる。それをまるで自分の義務のように思っているところがありました。
男兄弟は4人いましたけど、昭和の初め、佐藤家の四兄弟といえば世間では不良の代名詞みたいに言われていました。兄たちの思春期や幼い時分に父が家を出て私の母と暮らし始めたために、一家がバラバラになった。やるせない想いをしたことだろうと思います。そんな4人のなかで、うちへ来て皆を笑わせていたのは八郎だけですね。ほかの3人は笑わせるどころじゃなかった。不良をやるのに一所懸命で。(笑)、
私が小学生の頃には、八郎は陸奥速男(むつ はやお)というペンネームで、少年少女に向けたユーモア小説を書いていました。子供ながらに面白いなぁと思って読んでいましたね。作り物であっても、とにかく徹底的に笑わせていました。後に私もユーモア小説を書いたけれど、それは八郎の影響です。
当初は紅緑の息子だからというので書く機会を得たのかもしれません。だけど面白いものを書いて人気を得て、自力で作家になっていったんだと思います。驚くほどたくさんの小説を残していますから。
美術学校でニセ学生、暗躍、
八郎はやることが奇抜でしたから、八郎に会った人、話を聞いた人はそのことを鮮烈に覚えていたものです。家族は慣れっこでしたけど。(笑)、
私が物心ついた初めから、何かと世間じゃ有名な人でしたよ。作家であり、不良であり、ニセ学生であり。
ニセ学生というのはね、上野の美術学校(今の東京藝術大学)に友だちが多くて、仲間と一緒に何年も美校に通っていたんです。あまりに堂々としているから、守衛も教授も本モノの学生だと思い込んでいた。
漫画家の小野佐世男が、ニセ学生の八郎がいかに困った上級生だったかを書いていましたよ。先輩ヅラして新入生を校庭に並ばせて、50銭ずつ集めては卑猥な唄を準校歌だといって教え込んだ、と。、
上野動物園が美術学校と崖を隔てた隣にあったもので、ちょうど崖の下が七面鳥とホロホロ鳥の囲いだったのね。八郎が釣り竿で七面鳥を釣り上げて、仲間と焼いて食べちゃった。
徐々に鳥が減っていくので動物園長が校長に手紙を出したの。「貴校の猿どもがわが園の鳥を獲って困っている。取り締まってくれ」と。そうしたら校長は「わが校の猿は野放しだから、取り締まるわけにはいきません」って。(笑)、
サトウハチローさんの生涯と作品、
年譜は『落第坊主』(サトウハチロー:著)、『うたうヒポポタマス』(宮中雲子:著)、『サトウハチローものがたり』(楠木しげお:著)などより編集部作成、
ある種の鋭敏な感受性を持っていた、
センチメンタルですぐに泣く、
八郎さんは中学生の頃から詩人の福士幸次郎ふくし こうじろう に詩を学び、西条八十さいじょう やそ に師事。23歳で第一詩集『爪色の雨』を上梓しました。お父様の反応は?、
――「何が爪色の雨だ。爪なんてちっぽけなものを材料にするなんて。天下国家とか壮大なものに目を向けろ」と怒ってました。でもそれも八郎に聞いた話でね、ホントかどうかわからないですよ。ほらふきですから。
私は八郎の詩のなかでひとつ挙げるとしたら「象のシワ」というのが好きでしたね。
八郎が晩年、入院していた時に私、見舞いに行ってね。「兄さんの作った詩のなかじゃ私、ゾウの詩が、最高に好きなんだわ」って言ったんです。そしたらなんにも返事しないで、大きなほっぺたに涙が伝って流れました。亡くなる少し前の話です。
八郎はすぐに泣くの。センチメンタルなんですね。
涙し、感傷的な詩を書く八郎さんと、10代後半にはケンカでたびたび警察の世話になるなど破天荒なことで有名だった八郎さん。その間に落差を感じますが……。
――八郎にはある種の鋭敏な感受性があるんです。だからすぐに激怒してケンカしたり、感極まって泣いたり、女に惚れたり、わがまま勝手に振る舞ったりする。それぞれの感情が八郎のなかにはあるわけです。
人間は、いろんな要素を併せ持っています。ひと色じゃないんです。矛盾だらけですよ。
世間の人は、あの作家はこんな人間だと決めてかかるのが好きですね。それがわかりやすいからなんでしょう。でも、わかる必要はなくて、そのまま受け取ればいい。八郎はそういう人だった。それしかないの。
実母と離れて暮らす時間が長かった、
家では裸でいることを好んだ八郎。主宰する詩の勉強会「木曜会」の会報『木曜手帖』の編集作業にて、
母の姿をうたい続けた、
昭和33年に始まったドラマ『おかあさん』のために書いた詩は3冊の詩集になりベストセラーに。母についての詩は500篇に及ぶそうです。
――世間には受けていたようですけれど、あれはどれだけ八郎が自分の体験や心の底からの想いで作ったものか。想像力を使って創作したものが多かったんじゃないかと私は思います。作家なんだから、それくらいのことはできますよ。
八郎は実母と離れて暮らす時間が長かった。15歳で別れています。八郎の悪さにお母さんはそれはもう泣かされたそうですよ。八郎だけじゃなく、息子たちはみんな暴れたり落第したりして、母を苦しめました。
その頃の演劇や作家の世界の常で、父は女出入りの多い人でした。八郎の母親は父のわがままを好きにさせておいて、グチをこぼすばかりだったそうです。
「ちいさい母のうた」という八郎の詩があります。実際に体の小さい人だったそうですが、八郎には、その姿がある種の悲しみをともなって蘇るのでしょう。
哀れみや悔恨、そして理想の母の姿。そんなものを駆使して、たくさんの母の詩を書いた。そう思うと、私には「おかあさん」のブームは、ある種のイリュージョンのように思えます。
母の墓には一度も行かず、
「哀れみや悔恨、そして理想の母の姿。そんなものを駆使して、たくさんの母の詩を書いた。そう思うと、私には『おかあさん』のブームは、ある種のイリュージョンのように思えます」、
2番目の妻の窮地は荒療治で、
八郎さんは3度結婚。女優だった2番目の妻と暮らす本宅に踊り子の恋人を出入りさせ、仕事を手伝わせたとの逸話も。
――本宅というのがどこなのかもわからない(笑)。その時その時の気分なのね。まぁ、あの時代だって、世間はあきれてたことでしょう。
とにかく八郎がそうするって決めたら、そうなるんですよ。女たちが受け入れて平気でいるから、周りも認めてしまう。当時の芸能の世界の人たちには、世間の規範にとらわれず思うままに行動するところもあったのでしょう。たいていの女なら「私はこんな立場イヤだわ」ってことになるんだけど、そうならない。彼女たちは素直に、穏やかに、八郎の想いにこたえて いたようですね。
2番目の妻のるり子さんは麻薬中毒でした。麻薬中毒っていうのは治らないんですよね。でも中毒になったからといって、別れるようなことはありませんでした。
普通だったらお医者さんに委ねるところだけど、八郎はるりさんが麻薬をやった兆候に気づくと、横っ面を張ったり、蹴り倒したり、半死半生の目に遭わせるの。生きるか死ぬかの切実さに、るりさんも必死になります。その荒療治で中毒が治ったんです。うちの母も感心していましたね。「ハッチャンのおかげだよ。そうでないと廃人になってたよ」って。
雑司ヶ谷霊園ぞうしがやれいえん の八郎さんのお墓。墓石には「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる」と刻まれている、
最晩年まで仕事をし、亡くなる当日もエッセイを書いて心臓発作で急逝した八郎さん。今は雑司ヶ谷霊園ぞうしがやれいえん に眠っています。
――八郎の生みの母も、同じお墓に眠っていますよ。もともと雑司ヶ谷には、父と八郎の母の間に生まれて幼いうちに亡くなった子たちが眠っていた。八郎の母が若くして亡くなったとき、八郎が生母をそのお墓に入れたのです。
父・紅緑が亡くなった時は、私の母が文京区・弥生町にあった八郎の住まいからほど近い本郷の喜福寺にお墓を建てました。母が私と暮らす世田谷の家からは遠かったんだけど、母が「いくらハッチャンでも目と鼻の先にお父さんのお墓があったらお参りしてくれるだろう」と願ってね。けれど八郎はただの一度も行かなかった。だからと言って、誰も驚いたりあきれたりしないのが佐藤家ケです。
思い出の屑籠、
作者:佐藤愛子、
聞き手:本誌編集部、
佐藤愛子、
作家、
1923年大阪府生まれ。『九十歳。何がめでたい』が映画化され、6月21日全国公開。『思い出の屑籠』、など
。。
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