三軒茶屋ナザレン教会礼拝説教「支え合う者として創造された私たち」2025年10月26日
Автор: 三軒茶屋ナザレン教会
Загружено: 2025-10-26
Просмотров: 12
Описание:
2025年10月26日 礼拝式説教
創世記2章20~25節
「支え合う者として創造された私たち」
日本ナザレン教団三軒茶屋教会
牧師 石川博詞
<説教から> 創世記から、主なる神様が人をつくられた箇所を読みました。7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」との短い記述があります。とても簡潔ではありますが、私たちは主なる神様に直接命を吹き込まれ、生きる者とされたという、じつに厳かな思いに包まれる内容です。ここから、私たちは、神のご意志によって生きる者とされている事実を深く心に刻み付けることができます。すなわち、この私がいるということ、それは主なる神様の尊い御旨だということです。私たちは、この世において大勢の中の小さな一人ではりますが、神様は私たちを他の何にも代えられない本当に大切な一人一人として命を吹き込んでくださったのです。ですから、私たちは決して「その他大勢の一人」ではないのです。この箇所を読むたびに、自分の存在の意義深さ、そして周囲の一人一人の尊さを噛みしめたいと思います。
そして、創世記はさらに重要なことを明らかにしています。それは、主なる神様によって命の息を吹き入れられて生きる私たちは、互いに助け合い、支え合う者同士として存在しているのだということです。18節をご覧ください。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」とあります。主なる神様がつくられ、命を吹き入れられ、生きる者となった私たちは、ただ個別に存在しているのではなく、共に生かされているのです。この重要なメッセージは、天地創造のときから、今現在も、そしてこれからも決して変わりません。ですから、もし互いの尊い存在意義を忘れてしまうようなことがあれば、それは神を忘れてしまうのと同じです。そんなことにならないためにも私たちは、この創世記の記述を真剣に受け止めていなければなりません。この世のあらゆる争い、戦争という、命を否定してしまう恐ろしい罪の根源は、この記述を忘れてしまうことから始まるからです。
では、聖書が教える「共に生きる」とは、どういうことなのでしょうか。創世記に示す「共に生きる」とは、18節にある通り、人は独りでいるのではなく、助け合う者同士なのだと言うことです。しかもそれは、単に地域社会や学校、会社などに安心をもたらすためだけの目的ではありません。それは、神の命を得て、真に生きる喜びを感謝し、賛美することなのです。
ところが、私たちは価値観の違いなどゆえに、この「共に生きる」ことの難しさを感じることもあります。もし「自分の価値観こそが絶対に正しいのだ」と思い込んでいれば、支え合いではなく、相手を支配する他なくなってしまうからです。もちろん、創世記が示している、人が本来あるべき姿は、そのようなものではありません。創世記は、自分だけが絶対的、中心的存在ではなく、すべての人々が、主なる神様の命の息を吹き込まれていることを明らかにしているのです。それゆえ、主なる神様は助け合うよう私たちに語りかけるのです。ですから、もし私たちが主の思いから離れてしまい、助け合わないならば、それは自らの存在意義を放棄してしまうことになってしまいます。決してそうであってはなりません。私たちは、主なる神様によって生かされているという、この厳粛な事実をいつも思い出しながら、隣人と語り合い、祈り合い、学び合い、そして共に賛美をささげたいと願います。そうあってこそ、本当に主なる神様の命に生きる者であるからです。もちろん、自分の価値観とは合わない隣人もいるでしょう。だからと言って、その存在を否定するならば、それは自分が主の命に生かされていることまで否定してしまうことになります。とにかく互いに認め合い、支え合って感謝と喜びを感じながら共に生きてこそ、私たちは主の命を生きることになるのです。主なる神様は、私をつくり、私と共に生き者をも与えてくださいました。私たちは主がつくられた人々に囲まれて生きているのです。この尊い御恵みがあってこそ、本当の安心が与えられ、喜びに満たされるのです。自分の思いだけを満たそうとしても、本当の安心や喜びは決して得られません。そのような高慢さは、むしろ虚しさを募らせるばかりです。主なる神様の天地創造の目的は、私たちが共に生きる者となることです。すなわち、私たちは支え合う者として創造されているのですから、私たちが支え合っている姿を証しすることができたなら、それは何よりも主なる神様に喜んでいただけるのです。互いに心を頑なにせず、打ち砕かれれば、それが主なる神様への最高のささげものとなるのです。
マルコによる福音書10章6~9節に「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とイエス様の教えがあります。ここはよく結婚式で読まれる箇所です。イエス様は、創世記2章24節の「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」を引用されておられます。それは、結婚する者同士だけに限られるのではなく、主なる神様につくられ、命を吹き込まれている者とは、どういう者なのかを教えておられるのです。すなわち、私たちは別々ではなく、互いに支え合う者同士だということです。主は誰一人をも孤独の中に置いたままにはされません。主との交わりを与えられている私たちは、つくられたすべての人々と交わりを持つことによって、その尊い恵みを喜び、感謝し、賛美し続けていくのです。
主なる神様の御恵みをお祈りします。アーメン。
Повторяем попытку...
Доступные форматы для скачивания:
Скачать видео
-
Информация по загрузке: