誓願酬報(日本語)
Автор: 本願海濤音
Загружено: 2026-01-16
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誓願酬報:親鸞の『真仏土巻』における思想の核心
エグゼクティブ・サマリー
本論文は、親鸞が『教行信証』の「真仏土巻」において提示した「誓願酬報」という概念の独自の意義を解明するものである。親鸞の主眼は、阿弥陀仏とその浄土を単なる清浄な世界として示すことではなく、「大悲の誓願に酬報する」という動的な事実として開顕することにあった。この解釈は、固定化・完了形で捉えられがちな従来の仏土観や、人間社会の階級的価値観に基づく救済論を根本から覆すものであった。
親鸞の思想は、曇鸞の「力願相符」と善導の「是報非化」という二つの重要な概念の再解釈の上に構築されている。曇鸞の思想から、親鸞は「成就」や「酬報」を、原因(願)と結果(力)が相互に作用し続ける「現働性」を持つものとして捉え直した。また、善導の論を通じて、阿弥陀仏の報土が、人間の知解を超えた「仏の境界」でありながら、まさにその仏願の力によって「垢障の凡夫」を救済するためのものであることを明らかにした。
最終的に親鸞は、これらの思想を統合し、『興福寺奏状』に代表される当時の権威的な仏教界の主張と対決した。そして、「誓願酬報」の土とは、この世の身分や善悪の序列(品位階次)を超え、苦悩する凡夫(実業の凡夫)こそが救いの正機であることを宣言したのである。本稿は、この親鸞の思想的営為の核心を、原典の引用を基に詳細に分析する。
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1. 親鸞における「誓願酬報」の独自の意義
親鸞が『教行信証』に「真仏土巻」を著した目的は、阿弥陀仏とその浄土を「誓願酬報」という新たな視点から明らかにすることであった。巻頭と巻末で繰り返し示される以下の言葉が、その核心を端的に表している。
大悲の誓願に酬報するが故に真の報仏土と曰ふなり。
それ報を按ずれば、如来の願海に由って果成の土を酬報せり。故に報と曰ふなり。
この「誓願酬報」という概念は、以下の点で独自性を持つ。
「誓願」への焦点化:従来の仏土論では、仏の「因位の願行」全体に対する報いとして浄土が語られてきた。しかし親鸞は、行(修行)の根拠である「大悲の誓願」こそが根本であると強調し、重点を誓願そのものに置いた。
「酬報」の現働性:親鸞にとって「酬報」や「成就」は、過去に完了した事柄ではない。それは、阿弥陀仏の本願が今まさに働き続けている現実(現働性)を示す言葉として見出された。思想家・曾我量深が「酬いても酬いても酬いてしまったということはない」と語るように、それは永遠に続くダイナミックな活動なのである。
この視点から、親鸞は曇鸞と善導の思想を深く読み解き、自らの教学の根幹を形成した。
2. 曇鸞思想の再解釈:「力願相符」と「成就」の現働性
親鸞は、曇鸞の『浄土論註』に見られる「願心荘厳」の思想を、単なる因果関係として捉えなかった。浄土が願心によって荘厳された(因→果)というだけでなく、その荘厳された浄土(果)が、逆に願心(因)を明らかに荘厳するという双方向の関係性を見出したのである。この動的な関係性を、曇鸞は「力願相符」という言葉で表現している。
願以て力を成ず、力以て願に就く。願徒然ならず、力虛設ならず。力願相符ふて、畢竟して差はず。故に成就と曰ふ、と。
この一節は、因である「願」と果である「力」が、互いに成り立たせ合い、完全に一致して食い違うことがない事実を示す。親鸞はこの「力願相符」こそが「成就」の真実相であると捉えた。これは、結果だけを見て判断する静的な見方とは全く異なる。
成就の動的理解:原因と結果が応答し合うように相互に作用し続ける様を「酬報」と呼ぶ。因の時は果ではなく、果を得れば因は不要、といった断絶的関係ではない。
浄土の現在進行性:この理解に基づけば、「弥陀の本国四十八願なること」という親鸞の言葉は、浄土が願の結果であるだけでなく、「浄土そのものが願である」と解釈できる。浄土は願心の自己荘厳であり、今もなお建設が続く現在進行形の出来事となる。
3. 善導の「是報非化」論の深層
親鸞が「誓願酬報」を論じる上で最も直接的な根拠としたのが、善導の『観経疏』における「是報非化」(是れ報にして化に非ず)の論である。親鸞はこの論の中に、凡夫救済の核心を見出した。本論文の分析によれば、善導の主張は以下の五つの要点に整理できる。
1. 獲信による本願酬報の証明:阿弥陀仏が成仏したという事実は、経典に書かれているからというだけでなく、念仏者が往生を得るという確信(信的体験)そのものによって証明される。念仏者の誕生こそ、阿弥陀仏が因位の願に酬いた「酬因の身」であることの証拠である。
2. 報身・応身の不二:「報身」と「応身」は「眼」と「目」のようなもので優劣はないとし、仏身に関する知的な詮索を退ける。重要なのは「因行虚しからず、定んで来果を招く」という、原因が必ず結果をもたらすという確信である。
3. 「仏の境界」の不可侵性:仏が入滅するか否かといった問いは、声聞・縁覚のような聖者(三乗浅智)すら窺い知ることのできない「仏の境界」であると断言する。人間の浅薄な知性で仏の領域を判断すること(自我閉塞的解釈学)は、仏教の精神を阻むものだと厳しく批判する。
4. 「非化」としての真実性:善導は『般若経』を引用し、生滅するものはすべて変化(化)であるが、「誑相無き涅槃、是の法変化に非ず」と述べ、涅槃(仏の境界)が「非化」(変化・虚偽ではない)であることを示す。この「非化」の教えは、特に「新発意の菩薩」(=我々自身)のために説かれたものであり、衆生に積極的に関わる仏の意趣(真実)そのものである。
5. 仏願力による凡夫の救済:「彼の仏及び土、既に報と言わば、報法高妙にして……垢障の凡夫いかんが入ることを得んや」という批判に対し、善導は次のように結論づける。
4. 時代との対決:『興福寺奏状』への応答
親鸞が善導の論を重要視したのは、それが当時の既成仏教、特に専修念仏を弾圧した『興福寺奏状』の論理を打ち破る力を持っていたからである。
『興福寺奏状』の主張(聖道門の論理) 親鸞・善導の主張(浄土門の論理)
「賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ」とし、この世の身分や賢さ、徳行に応じて救済に差別があると説く(自業自得・階級的救済観)。 「大願清浄の報土には、品位階次を云はず」とし、阿弥陀仏の願の前では、この世の階級や序列は意味をなさないと説く(絶対平等の救済)。
「偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過なり」とし、仏の力のみに頼ることを愚か者の過ちであると断罪する。 「正しく仏願に託する」ことこそが救済の唯一の道であると示す。「垢障の凡夫」であることを救いの前提とする。
「出離の道、ただ心に在り」と述べ、個人の心構えや自己の努力を救済の根拠とする(自力門)。 衆生の救いは「仏の境界」たる大悲の誓願にあり、人間の計らいを超えたものであると説く(他力門)。
親鸞の教学は、人間社会の「常識」や組織体制の論理から仏教を独立させる営為であった。その批判原理の核となったのが、如来の誓願、すなわち「誓願酬報」の思想だったのである。
5. 親鸞による総合と展開:韋提別選の意義
親鸞は、善導の思想を単に引用するだけでなく、巧みな編集によってその意味をさらに深化させた。特に重要なのは、「五乗をして斉しく入らしむ」という凡夫救済の文の直後に、韋提希夫人が阿弥陀仏の極楽世界を選んだ「欣浄縁」の文を連結させた点である。
若し、衆生の垢障を論ぜば、実に忻趣し難し。正しく仏願に託するに由りて、以て強縁と作りて、五乗をして斉しく入らしむることを致す。又云く、「我今楽生弥陀」従り已下は、正しく夫人別して所求を選ぶことを明かす。此れは、弥陀の本国四十八願なることを明す。……
この連結により、以下の点が鮮明になる。
救済の対象の明確化:「正しく仏願力に託する」者とは、韋提希のように、宿業の苦悩の当事者として阿弥陀仏の浄土を「別して選ぶ」者(別選)であることが示される。
本願の能動性:その韋提希の選択は、実は「如来蜜かに夫人を遣はして選ばしめたまふ」という、如来の働きかけによるものである。これにより、凡夫はただ大悲の誓願のただ中にいる我が身を見出すのである。
このようにして親鸞は、「誓願の業因にむくひたまへるゆへに報身如来とまふすなり」と述べ、誓願という「たね」に報いることこそが「報」の本質であると結論づけた。これは、過程を抜きにした結果論的な仏土観を排し、「誓願酬報」の生きたはたらきを凡夫自身の救いの事実において確かめることを促す、画期的な思想であった。
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