【伊賀上野城】藤堂高虎は豊臣家を滅ぼすために日本一の石垣を築いた!
Автор: かいのすけ 歴史
Загружено: 2022-01-30
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藤堂高虎がどうして徳川家康に味方したのか、いろいろな説があります。
この動画ではその中の一つを取り上げています。
天守内部の画像は、公益財団法人伊賀文化産業協会による展示されたもの等を撮影したものです。
上野城を現在の形にしたのは藤堂高虎。高虎はこれまでに家康の命に従って多くの城を築いてきました。
高虎は、近江国の生まれ。身長6尺2寸(約190cm)の大男だったと言われています。
初めは近江の「浅井長政」に仕え「姉川の戦い」で足軽として武功を上げます。その後何度か主君を変え、羽柴秀長、そして秀長の子「豊臣秀保」に使えますが、秀保が17歳で亡くなり主家が断絶すると、高虎は主君を弔うため出家して高野山に隠棲したといわれています。
その功績を惜しんだ豊臣秀吉が高野山から高虎を呼び寄せ、伊予宇和島7万石を与えます。秀吉は先に亡くなった弟秀長から高虎の働きぶりを聞いていたのでしょう。
秀吉の死後、高虎は徳川家康に接近。高虎は家康のために忠節を尽くすようになります。関ヶ原の戦いの前、家康襲撃の企みがあるとわかったとき、自ら徹夜で警護にあたりました。また関ヶ原の戦いでは、西軍の「小早川秀秋」らの寝返り工作を行うなど、東軍の勝利に貢献します。
高虎が家康のために働くことについて「豊臣に恩を受けたのに徳川につくのはどういうことだ」と言う武将もいたようです。しかし仕える主君を間違えば自分も家族も命を奪われる時代。次の時代をまとめ上げる者は誰なのか、しっかり見定める力が高虎にはあったのでしょう。
高虎はいわゆる外様大名だったのですが、家康からの信任は厚かったようです。そして大坂城包囲網の多くの城について、縄張りを任されることになります。
家康は高虎を伊勢・伊賀の太守に封じ、ここを抑える城造りを命じます。伊賀は大坂から大和を経て伊勢湾に通じる最短ルート、重要な地ですね。高虎はこれを受け、それまで筒井氏の城だった上野城を高虎流に修築していきます。あの高い石垣もこの時に築かれたのです。
こうして、豊臣秀頼がいる大坂から徳川家の本拠江戸に通じる街道はいくつもの城によって守られ、上野城には大坂城包囲網の一つとして西から攻めてくる敵を迎え撃つという大切な役割があったのです。
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